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考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

霊魂(無し)転生,質時間回帰



*霊魂無しの転生#1~8*考える面白さはこの上なく*


霊魂(無し)転生,質時間回帰


霊魂はなくても転生があることの証明らしきものは可能です(検証はなされていませんが)。

それはこうなります。

人には意識がある。

その意識というものは、人の脳全体ではなく、脳の小さな一部に対応していることがわかっている(わかる)。

霊魂はないという立場なら、そこの部分の脳の組織(一生同じ意識を維持する枠組のようなものを含んだ、意識を発現させるもの)が、意識を生じさせているということになる。

その部分を、意識の主体、と名づけよう。

霊魂はないという立場では、任意の人(どの人も皆。すべての人が一人一人)の意識の主体とまったく同じ意識の主体をもった人が、その人の死後に生まれてきたら、それはその人の転生となる。

そして、意識の主体の総数よりも、生まれてくる人の数の方がはるかに多い、という計算結果がでてくる。

したがって、人は死んでも、また必ず、その人とまったく同じ意識をもった人が生まれてくるのである。

それは転生である。

以上の証明のようなものを認めないのは、人には意識はない、と主張するのと完全に同じです。

さらに、宇宙が永遠に続いていき(誕生と成長、衰退と消滅を繰り返しながらでも)人間が永遠に生まれ続いていくのなら、転生は永遠に続いていくことになる。

以上が、霊魂はないとする立場での転生の証明のようなものです(ただし、検証はなされていません)。

ちなみに、仏陀は、霊魂はないが転生はある、と原始仏典(仏陀の教えにもっとも近い内容の仏典。それ以外は後世の人達が創作した仏典であるそうである)の中で説いています。

(どこかまちがいがあったら、どうぞ指摘してください)



霊魂はなくても転生があることの証明らしきものの次に、霊魂はありそうであることの証明みたいなものを展開してみましょうか。

それはこうなります。

心・意識は物質ではない。

では何か?

まず、エネルギーの世界であることは間違いないといえる。

では、エネルギーのどんな世界なのだろうか?

その可能性として、心・意識はエネルギーに伴う波動の世界である、ということしかなさそうである(映像も音や音楽も皮膚感覚も波動の世界である。匂いや味は単にエネルギーの組織のようであるが、時間的経過をもたせれば、それは波動の世界となる。心・意識の世界は明らかに時間的経過を伴った世界である。よって心・意識は波動の世界であろう)。

そこで、
そういった意識の世界が、脳という物質の組織・システム上に発現することができるか?

その答えは、否、である。

なぜなら、
脳の中で最も波動性の高い電子をはじめとして、陽子、中性子、原子、分子、それらの結合したものなどは、波動性において一体性・全体性を形作ることができないからである(物質的な全体性は形作れる)。

意識は明らかに一体性・全体性を形作っている。

したがって、結局、心・意識は脳という物質の組織・システム上には発現しない、ということになる。

心・意識は、波動性が十分に高く一体性・全体性を形作れるなにか、の上にしか発現しない、ということである。

それを、霊魂(意識の主体)と名づけることにしよう。

つまり、霊魂と名づけるべき未知の存在にしか、心・意識は生じないということである。

以上が、霊魂は存在しそうであること、の証明みたいなものです(検証はなされていません)。

(どこかまちがいがあったら、どうぞ指摘してください)



ここで、非常に興味深い実験結果をご紹介しましょう。

私が読んだ文献にあったそのままをここに記しても、理解するのにものすごく時間がかかると思われるので、私が解釈して表現します(私にもものすごく期間と時間がかかった)。

それに関わった科学者たちやその他の科学者たち(ノーベル賞受賞者をも含む)も解釈できていません(解釈していません)。彼らも、あまりにも不思議すぎて、なにがなんだかわからないという状態です。

それは、ふたつあります。

1.脳の情報処理機能で情報処理された情報は、コンマ数秒後に意識の主体に入る。

2.脳の情報処理機能で情報処理された情報を、意識の主体に送り込むか否かは、随意にできる(つまり脳の情報処理機能がそれを決定できる)。

これでも難しいですね。
でもこれ以上簡単にはできません。

そこで、それによってどんな現象が起こるのか記してみましょう。

1.では、自分が決断したと意識した時よりも、コンマ数秒前に決断している、というおかしな現象が生じます(1.に関しては、この現象を私が解釈して1.のようにまとめたともいえます)。

2.では、自分が感じたことを、意識しないこともできるし、コンマ数秒前に遡って意識することもできる、というこれまた大変な事実が発生します(この解釈ですら、その科学者たちはできていない)。

謎謎謎の世界ですね。

そこで、それらをすっきりと把握・解釈・解説してみましょう。

むかつくほど面白く興味深い世界がそこに横たわっていますよ(ほんとに)。

まず、意識の主体と情報処理の部分は別物である、という結論がでます。

つまり、いろいろ考えたり、感じたり、悩んだりするけど、それは意識の部分がやってるのではなくて、情報処理する部分(考え、感じ、悩んだりする部分)が行ってるんだ、ということです。

それはつまり、意識とそれ以外の機能の脳の部位は異なる、ということです。

そのことは、非常に重大なことですよ。

転生があれば(霊魂があってもなくても転生はある)、転生したら、正反対の人物にも転生する、ということでもあるし、
意識の主体の総数よりも生まれてくる人の数の方が、よりはるかに多いという結論にもなるので、転生はかなりじゃんじゃん起こる、ということにもなります。

さらに、霊魂がある、という結論もでてきます。

霊魂がないと、そんなおかしなことは絶対に起こらない、
霊魂があるとすると、すっきりと説明できる、
だから霊魂は絶対にある、
という論理の流れになります。

そこをさらに詳しく解説してみましょう。

まず、「コンマ数秒前に決断している」についてですが、意識する部位が脳の全体または一部であるなら、そんな「コンマ数秒うんぬん」ということは絶対に起こりません。

つまり、霊魂がないとそんな現象は絶対に起こらない、ということです。

霊魂がないならほとんど時間はかからない、脳と霊魂との間の情報のやりとりにそういった時間がかかる、ということです。

ついで、「コンマ数秒前に遡って意識することもできる」についていうと、意識に送り込んだ時に、コンマ数秒前のことをそのまま意識することになるのであって、これも、意識する部位が脳の全体または一部であるなら、そんな「コンマ数秒前に遡ってうんぬん」ということは絶対に起こりません。

霊魂があるならそういうことが起こる、ということです。

つまりそれもやはり、霊魂があることを証拠立てている、といえます。

さらに、霊魂とは別で脳とも別の、霊魂的存在で意識のない、情報処理だけを司る「知性体」と名づけるべき存在、がある可能性をも高めています。

コンマ数秒、という時間が長すぎるからです。

それに加えて、「つまり脳の情報処理機能がそれを決定できる」という個所は、それ(脳の情報処理機能)が脳の一部にあるのではなく、霊魂的存在で意識のない、情報処理だけを司る「知性体」と名づけるべき存在の中にある可能性、をも際立たせています。

さらに、そういった知性体という、霊魂とは別の霊魂的な存在を想定しないと、説明がつかないような内容が、多くの本や文献に記載されています。

ですから、知性体という存在がありそうです。

以上が正しいなら、人間は、肉体、霊魂、知性体、で成り立っているということになるでしょう。

霊魂がありそうであることの証明みたいなものはまだいくつもあります。

ただし、知性体、霊魂、がなくても、転生はあるという結論はでているわけだし(証明らしいものがある)、科学的カルマ(このブログに既述。このあとにも書きます)も変わりなく働く、という証明みたいなものはまったく同じに適用されます。

つまり、霊魂と知性体があろうがなかろうが、転生はあるし、科学的カルマは同じように働く、という証明のようなものが強力になされている、ということです(検証はなされていませんが)。


ここまでを整理してみます。

霊魂はある、という可能性は最も高い。

知性体はある、という可能性はかなり高い。

霊魂はなく、意識は物質の組織・システムである脳の上に生じる、という可能性は非常に低い。

知性というものは、物質の組織・システムである脳の上に生じる、という可能性はかなり低い。

しかし、そのどれであっても、
転生はあるし、科学的カルマは同じように働く、という証明のようなものが強力になされている、ということです(検証はなされていませんが)。


表題の、「霊魂無しの転生」というのは、そこからはいっていくのが人々を最も惹きつけそうだし、霊魂がなくてもあっても結論のすべては同じになるので、そう名づけました。


さて、次に、この世界を生き続けていく人間についての究極の法則、つまり、転生していくと、どういった人間に生まれついていくのか、どういった性質の人間に生まれていくのか、どういった境遇になっていくのか、などについて、論述していきましょう。

それもまた、強力な証明らしいものがあった上でのことです。

またまたむかつくほど面白く興味深い世界がそこに横たわっていますよ(ほんとに)。

まず、意識の主体には、明らかに、体験に応じた変化がつきます。

なぜなら、すべての存在は、なんらかのエネルギーを受けたら、それに応じた変化がつくからです。

人がなんらかの体験をすると、それに対応したエネルギーの組織がその人の意識の主体に送り込まれます。

つまり、体験に応じた変化が意識の主体につく、ということです。

そこにおいて、同じ体験が続いていって、同じ変化がつき続けると、意識の主体についた変化は限界に達し、意識の主体は壊れてしまう。
ちょうど、棒を曲げていくと、ある時点で折れてしまうのと同じように(ゴムのような素材の棒でもそうなる)。

そこで、意識の主体が壊れないための仕組みがあると考えられる。

意識の主体が壊れない条件とはなにか。

それは、わかりやすくいうと、ある体験をしたあと、それとは正反対の体験を同じ量体験すること、となる。

たとえば、半径百メーターの土俵のようなものを考え、そのまん中に立ち、そこから北に百メーター歩いていったとする。

それ以上同じ方向に歩いていくと、土俵から落ちてしまう。

そのことを、意識の主体が壊れることに見立てることができる。

そこにおいて、土俵から落ちる前に、反対の方向、この場合南に百メーター歩いていくと、土俵のまん中に戻ることになる。

そのことは、意識の主体についた変化がもとに戻ったことにあたる。

正反対の方向に同じ距離歩く、ということは、正反対の体験を同じ量体験する、ということにあたるのである。

(体験の質というものは方向性と同じようなものであり、それに量をもたせれば、ベクトルと同じような概念の、方向性(質)をもった量、になってくる)。

つまり、意識の主体が壊れないためには、ある体験をしたら将来必ずそれとは正反対の体験を同じ量体験することになる、ということである。

意識の主体を壊さないために、この世界にはそういった仕組みがあるはずである(検証はなされていない)。

それを、科学的カルマ(質時間回帰則、体験元戻り則、プラスマイナスゼロ化則。精神的収支均衡の法則)と名づけよう。

ある体験をしたら将来必ずそれとは正反対の体験を同じ量体験することになる、という法則を解釈してみよう。

他人に為したとおりを将来必ず自分が受ける。
今の自分と正反対に将来必ずなる。

そういうことになります。



(どこかまちがいがあったら、どうぞ指摘してください)


(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)


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